私は 商業的にスピリチュアル記事を書いていたことがありました。
プロの編集者がつき、私の原稿に赤ペンが入り、何度か書き直して発行に至るスタイルです。
もぅ数年も前のこと。
皆さんが検索すると一番に目にする スピリチュアル記事のまとめサイトの作家です。
その期間に、スピ”系”なる(業界)大手出版社での 執筆の契約を結ぶことになりました。
そこで 知った事がありました。
それは、スピリチュアルな情報分野にもミスリードが潜んでいたこと。
ニュースやワイドショーでの偏向報道ぶりは、今では広く認識されていますが、その手のことは出版にも見られます。
今回は その一部について、私が実際に経験したことを書きますね。
ここでは、その会社の詳細は控えます。
スピ系を自認する方々には広く認知されている会社なので、悪しからず!
出版業界のコード
執筆の契約を交わす際、日本で催眠を広く伝えようとすると、そこには 出版社側からの制約、出版業界のコード(基準)のようなものがあることを告げられました。
(やはり、そうか…)
驚きを感じつつ、そう思ったのを今でも鮮明に記憶しています。
「ウチもボランティアじゃないですから。ビジネスなので…」という社長の言葉が耳に残っています。
つまり、本当の覚醒や真理に目覚めるということよりも(この業界は)ビジネスだとハッキリ言われた気がしました。
このことは私にとって、とても良い経験になったと感じています。
(私がしたいのはスピ商売じゃないな)と強く思えたのです。
引き寄せの” The Secret” に至っては、ただ人びとの我欲(小我)に期待を持たせることで大ヒットしました。
そのスピ”系”のビジネス戦略に違和感を持った (The Secret)出演予定のスピリチュアル・マスターの一部は、当初の企画から外れていきました。
マスターとはいっても、人としての試練、ゴタゴタにも遭遇するでしょうし、問題はそこではありません。
ただ真実は誤魔化され、ちょっと違うものとしてミスリード情報と化している可能性に気づいていたいと思うのです。
なぜなら、誤った解釈を真理だと伝えられ、失望させている状況が明らかだから。
そして受講生さんの多くも、浅慮でヘンテコリンな解釈を信じようと努力してきたけれど(やっぱり違うんじゃない?)と 疑いが生じて、周りのスピ・ファンに馴染めなかったという人がとても多くなっています。
偽りのノン・ジャッジ
その代表格は、ノン・ジャッジの教えに関する誤りです。
まず 語の意味を正確に見てみましょう。
*ジャッジ:判断・審判、判定
*クリティサイズ:非難、酷評、批判、批評、評論
「NOと言えない。違うよ!」と言ってはならないという、摩訶不思議な誤解釈を持っている人がいます。
これは明らかに誤った理解なのですが、まともに受け取ってしまうとカルトでも、非常識な霊感商法(壺売り、パワーストーン売り、波動入り絵画…、はたまた宇宙人ヒーリング商法)などでも、盲信を是とすることにならないでしょうか。
カルトというタグでも付けば目が覚めるでしょうけれど、新しいタグ- たとえば「高次元」という新種(のタグ)には また騙される可能性がありますね。
しかも、今風に ノンジャッジの教理がついていると…あなたは ノンジャッジの精神でなければなりません…(笑)
疑ってみたり、批判したり…という行為、思考は恐ろしく波動が低いからね〜なんて教わっていて、低い波動と思われたくない…ので、イイ人らしく、寛容なフリをするかもしれません。
ズバリ言っていいと思いますが、その解釈は稚拙で、完全に誤りです。
判断してはいけないという教え自体、どちらが良くて良くないかを判断しています。
判断していますよね?上下の格付けがあります。
この一点で、すでに「ジャッジしてはいけない」という論理が崩壊していくでしょう?
スピ”系”らしい稚拙な誤りです。
これは、あなたを思考停止に誘っていきます。
一方で、真理は矛盾しません。
あの真理法則とこの真理法則がケンカをしていたら、宇宙の運行もメチャクチャになってしまいますからね。
そもそもノン・ジャッジの意味するところは、どんなに辛いことがあっても、あなた方には その真が理解できていないのだから、アレはひどい、アレは最低、だとか 浅薄な思慮では物事を判断できないよね、ということ。
その局面では 最悪なことも、のちに災い転じて福となる(こともある)。
だから目先の現象や、ある人の態度を以てして、自分にはすべてが明らかだと判断することは出来まい、ということを教えています。
自己流に(おそらく自己解釈だと思いますが)、単にアレやこれを批判してはいけない、なんてことは示していません。
判断は大切です。
もし、あなたのそうした精神姿勢が低次元だと批評するグループ、スピリチュアリティなら、それこそ現代のカルトと怪しんだ方が賢明な知者です。
イエスやブッダの例を挙げましょう。
イエスは、神殿の境内で商売がなされていることを「批判」しました。
小売人を叱り、商品を蹴散らしたほど怒ったことが記されています。
誤りであるものには誤りだ!と、明確に表明しました。
また或るときには
ユダヤ教のラビ(司祭)たちに、彼らの教え(タルムード的解釈)は間違っていると言い(ゆえにイエスは畏れられ、恨まれてしまったのですが)「やっぱり、ソレは違うってば! 神は そんなこと、言ってないし」と 真贋を判断(ジャッジ)していたのです。
ブッダも。
ブッダが”ブッダ(覚者)”になる前に、ともに修行をしていた兄弟弟子たちに向かって、「ボクはさ、この方法ではゼッタイ悟れないと思うよ!」と言い、古くから継承されてきた荒修行を、或る意味 否定(批判して)菩提樹の下での瞑想を始めました。
先輩らが人生を賭けてきた修行方法でも(それ、ちょっと違くない?)とダメ出ししたわけ。
兄弟弟子からは「根性がないヤツだ」と 顰蹙をかった出来事でした。
あなた自身がよ〜く考え、モノゴトの裏表を観察し、洞察を深めた結果、違う!と思えば、表明して構いません。
ただ 大抵は 洞察も甘く、思考レベルも経験も未熟なうちは大した判断はできまい。だったら判断しなさんな… ということ。
でも、明らかな誤りくらいは、気付けますよね。
詰まるところ、ジャッジはダメといっている”教祖”(がいるとしたら…ですが)彼らは自分や商品を盲信させ、その欺瞞への批判を逃れるために、ノンジャッジの誤解釈を好んでいるのかな?とさえ感じられるのだけれど。
いや、これは意地悪や悪口ではなく、ただの客観観察です。
フラットにね、そう観察されてしまいますよね。外野から見ていると。
あるいは、この人は本当には 理解できていないのだなと。
今日は、ジャッジしてみていい。左脳も大切であることを伝えたいと思います。
ノンジャッジの教えはまた【塞翁が馬】からも知ることができますから、引用させて頂きますね。
*塞翁が馬:一時の現象(幸・不幸)は すぐに逆になりうるから、軽率な”判断”(一喜一憂)はできないという諺。
【塞翁が馬】のお話
国境の近くに、馬の調教に長けた老人(塞翁)がいました。
ある時、塞翁の馬が胡人(異民族)の土地に逃げてしまったのをみて、人々は「残念なことだ」と言い、同情していました。
しかし 塞翁は「これが残念な出来事だと 決まっているわけではない」と言います。
こうして数か月すると、 逃げた馬が胡人の駿馬を連れて帰ってきました。
それを見た人々は「なんと幸運な人だ」と塞翁を祝福します。
しかし今度は、塞翁は「これが不運にならないと、どうして確信できるのか」と言います。
すると塞翁の息子が、その馬に乗り、足の骨を折る大怪我をしてしまいました。
「なんと酷い事故に遭ったものだ」
人々は、そう言って 塞翁と彼の息子に慰めの言葉をかけます。
が、塞翁は「いやいや、どうしてこれが良いことにならないって、言えるのか」と。
1年ほどして、胡人が国境を越えて、攻め入ってきました。
村の青年たちは戦争に駆り出され、10人のうち9人の者が戦死する結果になってしまいます。
この時、足を骨折していた塞翁の息子は 戦争に召集されず、命を永らえました。
劉安『洵南子・人閒訓』より
ノン・ジャッジの教えは、目先の知見で 浅い判断を下しがちな人間の危うさを示しています。
が、一方では マスターたちの言動が示すように、スピリチュアルな真理においては答えは一つ(The One)ですから、真実でない誤りは確定的に存在します。
だから誤った教えについてはNOだと思っていいのです。
誤った解釈、それについての盲信は誰の益にもならないでしょう。
(じゃあ、論争になるよね)と思いますか?
いえいえ、ここからが高次元思考へのジャンプです。
どちらも”勝てる”思考をします。
互いを潰すためのジャッジではなくてね。
言葉や言い方も、洗練された表現に努める特訓ですね。
それが成熟した精神性を表します。
分かりやすく例を挙げれば
・ベビーソウルさん
ただ自分が勝つために批判したがります。
だから主張が間違いだろうが、自分が勝てればいいという思考に傾きがち。
捏造した悪口でも、一方的な情報や考えのまま(誤解したままでも)それを正論だと思ってジャッジし続けます。
この場合は、もしベビーさん自身で気づけたなら、ノンジャッジに努めてください。
悪口も言いたくなり、怒りもあるでしょう。
冷静になれないうちは、口をつぐんで 謙虚に尋ねてみては?
他者には自分の知らない真理、熟慮があるかもしれないのですから。
・ヤングソウルさん
あなたがジャッジしたいのは、ただ真理かどうか。
きちんと理解した欲求があるので、誤ったものを見抜く知性を鍛えている段階です。
ここではジャッジは良いことです。
でもベビーソウルさんのように、どちらが勝つかの論争はしません。
如何により良い判断をするか、ということを練習しているレベルです。
ただ勝ちたい感情にも、まだまだ引きずられてしまうかも。
そこだけ注意します。
・マチュアなソウルさん
自分が放った怒りは自分に返ってくることを体験的にも知っているので、怒りでなくフラットに正邪を判断でき、述べることができます。
ベビーソウルさんは、自分なりの知見の中で、あなたに怒り出すかもしれません。
(ベビーさんは勝つことがメインの目的で、学習中です)
無益な論争を誘発するかもしれない場合もありますから、本当のことを言うべき時と、あえて言わない時を判断する出来事が起こってくるでしょう。
あまりに話のレベルが合わない時は離れていくのもいいでしょう。
ベビーソウルさんの回り道だって価値がある体験学習です。
あなたが必要であれば、素直にきいてくるでしょう。
ベビーソウルさんの反発についてはノンジャッジでいましょう。
・マスターソウルさん
十分に検討したテーマについては、真理を遠慮なく述べることができます。
だたし、他方をせ責めて、貶めるのではなく、論争に勝つ必要がないことを知っています。
なぜなら、ジャッジもノンジャッジも、ソウル段階によって正の行為であり、同時に誤りにもなり得ることを知っているから。
持論は譲ったりしませんが、互いの思考には立ち入らないという不可侵条約があり、冷静に真理はどっち?という討議ができます。
どちらもまだ、真理を知らないかもしれないという謙虚さ、他方の探究で得た答えに対しても敬意を持っています。
そうしてジャッジとノンジャッジの段階を繰り返しながら、より高まっていく道を選びます。
結論として、しても良いジャッジと、避けるべきジャッジがあり、成長段階によっても、ジャッジとノンジャッジの双方を訓練していきます。
ジャッジ一つにも、陰陽の両面がちゃんと揃っていることがわかりますね。
だから皆さんも、もっと自由に判断していいと思うのです。
ただし 熟慮をもって。
ジャッジとノンジャッジのラセンを巡っていくと、自分より上位のソウルが言わんとしていることが数年後に理解できることがあります。
私にもそうした経験があって、下位レベルでは測ることのできない知見が(上位の方には)あるのだな…と知った時、自分の判断の浅はかさに気付きました。
人間だから誤ることは、沢山あります。
その堂々巡り、繰り返し。
正邪を判断する練習はとっても大切なこと。
誰かを批判したとしても、それが正しいこともあります。
あるいは あなたの理解が間違っていて、恥をかきながら学べることもあります。
私には、こうした失敗、思い上がった経験、恥じる体験も周波数の低いこととは思えません。
だからより成熟していくんでしょう。
失敗や浅はかさ、高慢の謙(へりくだ)りがなければ、聡くなれないのだから、失敗も重要だし、どちらが高次元なのかと一括りには言えない筈です。
様々なジャッジの末、正解に辿り着けるかどうか。どれだけ真贋の眼を養ったのか、それだけが重要でしょう。
人類の科学は、これほどまでに如何にして発展できたのか…を考えてみると、ここでも一つ、ジャッジの素晴らしい点をあげることができます。
人類のテクノロジー、医学、科学は、繰り返し繰り返し、前人の仮説の誤りをハッキリと指摘し、より正しいと思われる新仮説を立て、検証してきた結果です。
未踏の分野を探求するときは、このように誤った解釈を正しながら発展していきます。
これが科学的な精神姿勢です。
ましてや スピリチュアル世界は これからも未解明であり続けるし、死後の世界、霊の存在だって(本当は)誰も確定的には語れず、知らないのです。
非合理的で、説得力も根拠もないヘンテコリンな教えに あなたが忠実である必要は微塵もないのでは?
(あの「ノン・ジャッジ」っていう信じ込みは 偽りじゃないかな)と感じている方に、以上のことを説明していくと皆さんは口々に言います。
(そうよねぇ。どこか 納得できないし、変だと思ってた!)と。
璃子 Riko Claire
アウェアネス・インスティテュート
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ヒプノとサイキック
レッスン / セッション
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認定トレーナー